その人

そもそも、わたしに「その人」を裁く権利などあるのでしょうか。
 
その人は罪に服することは出来ません。
罪を犯したかもしれないことすら記憶になければ、
どうして裁けるのでしょうか。
有罪かもしれませんが、その人を誰も裁くことなど出来ない筈です。

その人から剥がれるように無くなった記憶。

それは、ちょうど共に12年間築いてきた記憶でもありました。

私を知らない人間と共に居ることがどれだけ大変かは、
まるで配偶者が一夜にして認知症になった、と考えればよく分かります。

あの日、あの時、
神さまからの言葉、
「このこ(この娘)は、人の道に反することがなければ、恐らく大丈夫でしょう。」
その言葉の意味。

今となって、ようやくすっきりと判ります。
こうなる事は、やはり神には分かっていたのです。

ここで言う神とは、
高次の漠然とした意識ではなく、
神道の名のある神たちです。

記憶の無くなるさまは、
ずっと昔に経験した「影とり」をされた人に
似ています。
盗られた影の場所を、直ぐに光で覆って分からないようにしないと、そこから闇は広がり、
影ひとりの分の記憶が完全に無くなり戻ることはありません。

彼女の中の記憶が無くなる事、それは自分の中に共に居た別の人格意識である姫神さまがたが無くなることでもたらされました。
そして、偶発的に無くなった訳ではなく、アクセスバーズの恐るべき単純な論理と信仰によって、彼女自らが自分から引き離すことでもたらされたのです。
まったくの不意を突かれました。
(アクセスバーズについての記述は誤解を招きやすいため一言添えますが、バーズの施術がこう言う結果を生むわけではありません。被害が大きいのはむしろ施術者側の教育の問題です。)
この度の屈辱的でとても苦しく、悲しい出来事は、
影盗りではないけれど、私たちに同じ結果をもたらしました。

そして、今ここで留まってはいけません。
先に進まないといけません。

私の側に姫神さまが立たれてから、
もう既に4か月の日が経とうとしています。

記憶がなくなり始めた頃は、私も状況の不快さに慣れずに彼女を生理的にも受け入れられずにいました。
今は少し落ち着いたものの見方が出来ますが、彼女が私の触れたものを手に取れないように、私もまた同じなのです。

人の繋がりは互いの記憶にあるわけではなく、
互いの心にあると言う人がいますが、まったくもって心に響きません。
いづれ分かると言われたとしても、今大切なのは記憶を有しない人との生活です。

この記事は、まったく私にとっての愚痴になりました。



神とあの日の自分

楽しくて幸せな毎日が続きますように! 妻と子供たちと愉快に暮らせますように! 神とあの日の自分1

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